七夕さまが引き合わせた、奇跡のような出会い
「ひとりで暮らしていたら、絶対に得られないつながりが生まれている」
令和2年 8月19日
80代の粟飯原育子さんと20代の林大晟さんが、毎晩一緒にご飯を食べているという噂を聞きつけた編集部のメンバー。年齢も性別も出身地もちがうふたりが、どのようにして出会い、世代を超えて家族のような付き合いをしている理由を知りたくて、下分にある粟飯原さんのご自宅でお話をお伺いしました。ふたりが紡いできた心あたたまる物語の、はじまり、はじまり。
粟飯原:私は、神山生まれの神山育ち。小さいころは戦争で、この家の前にも、小学校の校庭にも防空壕があったんよ。小・中学校の間は、勉強らしい勉強はできんかった。けど、出席番号はいつでも一番やったよ。「粟飯原」は3人おったけど、名前が「育子」やったけんな。高校は町外で、下宿生活。ご飯も3食自炊で、1台の七輪をうちわで扇いで、ご飯炊いて、おかずして本当に大変でした。裁縫学校に行くようになってから、ガスコンロができて嬉しかった。結婚してからは、子育てをしながら、そのかたわら婦人会や民生委員の活動もしてきた。今も続いている生活改善グループは、ちょうど植樹祭(昭仁上皇の即位後初の地方公務が神山町で行われた)の年に、何か神山ならではのものを開発してみようと取り組んだのが、いまの特産品づくりのはじまりです。神山特産のすだちを活かして、それを伝承していけたらいいなと。今も下分の加工所で、ものづくりが好きな友達が集まって、すだちの果汁とか完熟したすだちの皮を砂糖で炊いて、それをお菓子とかに入れて販売しています。
林:僕は、徳島県阿南市で育って、大学で大阪に出ていきました。大阪で6年間大学生活をしてから、就職で鉄道会社に入って、最初の配属が岡山県岡山市でした。
しばらくして仕事をやめて徳島に帰ろうかなと思ったときに、メディアでちょこちょこ神山が出ているのを見ていて。徳島に帰るなら神山がおもしろそうと思って、何度か神山に遊びに来てたんです。暮らそうと思ったのは…そこは勢い。元々山が好きだったし、神山の風景とかに一目惚れして、全然つてもなく飛び込んできました。いま思うと、なかなかリスキーなことをしたなって(笑)。
いまは、認定NPO法人グリーンバレーに勤めています。役場から業務委託を受けている神山町移住交流支援センターの担当。県内・県外から移住希望者の対応が主な業務で、物件案内や契約サポート、空き家の中に残された荷物の片付けなどをしています。
—おふたりは、どのようにして出会ったんですか?
粟飯原:去年の七夕さんに、はじめて会うたんよ。七夕まつり※1の準備をしよったら、若い男前がおるけん話しかけたん。(笑)
林:ちょうど神山に住み始めたころで、下分でイベントがあるから行ってみようと。七夕まつりの準備は、10ぐらいのグループに別れて笹の飾り付けを一緒にやるんです。
粟飯原:たまたま、この子と同じグループになって。「どこから来たん?」って聞いて、色々話をしていたら、高校の時に私の息子がしている塾に通っていたことがわかって。
林:そうなんです。僕が高校生のとき、育子さんの息子さんが先生をしている塾に通ってたんですよ。びっくりしましたね。
—すごいご縁ですよね。
粟飯原:そうなんよ。飾り付けの会場にもいっぱい人がいて、誰が来たか分からんのになぁ、たまたまおんなじ笹を。
林:前から下分にすごいきれいなおばあちゃんがいるっていうのは聞いていたんです。育子さんと目が合った瞬間にビビっときて、この方かなと思ったらやっぱりそうだった。
粟飯原:それが粟飯原先生のお母さんって知っとったん?
林:知らんかって。そっから世間は狭いなってなって。
粟飯原:世間は狭いけん、悪いことはせられんでよ(笑)
—それから、どうやっておふたりの関係は紡いでいったんですか?
林:育子さんと出会ってから、育子さんの弟さんのすだちの収穫の仕事を手伝うようになりました。
粟飯原:特に何っていうんでないけど、まぁ“ご飯食べるで?”やな。
林:すだちの仕事が終わったあとに、ご飯を食べようって言ってくれて。
粟飯原:夜遅いときは11時ぐらいまで手伝ってくれるんよ。それで、弟だけが来てごはんを食べに来るので「あの子は?」って聞いたら「食べにかえってるんだろ」ってそんなこと言う。「そんなかわいそうなことできん、はよ呼んできて」って言うて。夏やけん、野菜ばっかりの食事だったけどな。
林:ほんまに品数いっぱいで。最初は、週に2、3日だったのが。僕がまったく料理できなくて、料理ができんっていうてたら、いつのまにか毎日に。
粟飯原:ほんま嬉しいんでよ。もう一品でも何かしようと思ったら動けるし、頭も使えるし。ありがたい、ありがたい。
林:毎日仕事が終わったら自分の家に帰る前に、育子さんの家に寄って「ただいまー」って、そのままキッチンに入って行って。
粟飯原:帰ってきたらちゃんと挨拶して、手を洗って。食べ始めるのも、私が座るまでじっと待ってくれて、必ず「ありがとうございます。いただきます!」って。当たり前のことだけれど、若い人があんな風に毎日言える?ほんまに賢いんよ。
—育子さんの手料理で、何が好きですか?
林:全部好きですよ。全部美味しい。一番最初に感動したのは、こんにゃくとなすびの柚味噌和え。あと山菜の天ぷらとか、神山の野菜を使った食事をつくってくれるんです。ひとりで暮らしていたら絶対できないです。
粟飯原:気持ちよくおいしそうに食べてくれよるけん、こっちも気持ちがいいし、毎日が嬉しくて生きがいを感じます。
林:昼のお弁当も持たせてくれる。だから、僕神山に来て外食が少なくなったんですよね。
—ふたりで過ごす時間はどんな感じですか?
林:ただただ楽しいです。僕は元々、じいちゃんばあちゃんに育てられてて、ご高齢の方と話すの好きなんで。食事の間もずっと話をしてます。
粟飯原:ほんまこの子は若いのに、いっぱい教えられることばっかりじゃ。
林くんがおらんようになったら、どうしよう。でも、いつまでもひっぱっとれんしな。
林:最近はタブレットを使って、アプリで育子さんと県外に住む娘さん家族をつないでビデオ通話をするんですけど、それを僕が裏方みたいな感じで。
粟飯原:娘がコロナで帰って来れないから、タブレットを買ってくれたけど、この子が居ないと何にもようせんの。「ここ押し」って言ったって指が曲がって違うところ押したり。面白いんなぁ。
林:育子さんと僕は、家族ではないけど、別のジャンルというか、すごい親密な関係。僕のメンター※2、師匠でもありますね。また、徳島にいる娘さんご夫婦とも仲良くさせてもらっています。
粟飯原:娘夫婦も神山に帰ってくるんを、ごっつい楽しんどる。晩ご飯前のお風呂から一緒に入ってな。
林:そう神山温泉から(笑)端からみたらめっちゃ図々しいやつなんですよね。
粟飯原:図々しいないわよ。娘の2番目の息子と年齢も格好からすることまでよう似ていて。ほなけん私は“孫”と思っています。
—いまの神山をどのように感じられていますか?
林:メディアとかでは、移住者ばかりがピックアップされているけど、僕は、地元の方々の人間味のある優しさやみんながよくしてくれるところが神山のいいところだと思います。ただ、この先そういう地元の方々が少なくなっていくと思うと寂しいですね。
粟飯原:ほんま寂しいわ。このあたり昔は銀座通りだったんじょ。お店屋さんばっかりでな。今はもう、みんな戸締めてしもうとるけどな。高齢でみんなひとり暮らしで、大きな家ばっかりが並んでいるけれど、空いたらどうするんだろうかと思う。
林:おうちに関しては移住交流支援センターの方で物件がうまく利活用されるようお手伝いさせてもらいます。(笑)
—林くんは育子さんや地元の方と出会って、可能性みたいなものは感じますか?
林:可能性はあると思いますけど、具体的にこうなっていくとかはあまり想像できないです。だけど、移住者同士のつながりだけでなく、僕みたいにぽっと入ってきた移住者が地元の方とつながることができて、その結果、もし良い関係性が築けたらいい方向に行くと思うし、そういう世代を超えた関係性が色んな所で起これば、町全体として希望はあるかなと思ってます。おそらく今までも神山にはそういった人の繋がりがあったから、移住者が生き生きと暮らしやすい雰囲気になっているんだと思います。
粟飯原:けど、誰でもがこの子みたいにぽっと入ってこれんのよ。よそのおばあさんの荷物をすっと運んだり、私がお米配達しよったら手伝ってくれたりな。みんなに「誰?」って聞かれるけん「うちの孫」って言うんよ。(笑)
林:僕は本来怠け者の性格なんやけど、やっちゃう環境があるというか、楽しくてやっちゃうみたいな。
粟飯原:何でもしてくれる。弟や息子に言うてもしてくれんけど、この子は全部してくれる。
林:この前は生ごみ処理をする「キエーロ」をつくりました。強制されてるとかじゃなくて、ただ、やってあげたくなる。見返りなんて必要なく、ただただ貢献したいなと思って。楽しんでます。
—育子さんは、林くんのように神山に移住してきた人たちとの出会いをどのように感じていますか?
粟飯原:これまで仲良くしてくれた子が神山を離れても、やっぱりすだちを送ったり、向こうからも特産品を送ってくれたり。地震やコロナのときもやっぱり心配で電話してます。最近は、フードハブさんが「お団子の作り方を教えて欲しい」と言われて。最初は企業秘密を教えるんは“ああ、どうしようか”と思ったけど、考えてみたら私たちも齢が齢ですし、明日にはどうなるか分からんのに、覚えてもらって神山の味として伝承していってほしいと思って。今は毎週土曜日にフードハブと私たちとで賑やかに楽しく頑張っています。私たちができなくなったら、このお団子が伝わっていかんでえな。ほんなら、私ができる間はちゃんとするけん、売りなって。好評でその日のうちに完売するそうです。細井さん※3にも言うたんよ。「(教えてって)言うてきてくれてよかった」って。いろいろとフードハブさんには感謝しています。
−育子さんが出会った人を大事にする根源ってなにですか?
粟飯原:近所のおばあさんも、移住してきた子もフードハブもみんな一緒。こうやってしてあげようとかはない。当たり前と思ってしています。気取ってやっても続かんでえな。それこそ「は・ひ・ふ・へ・ほ」じゃな。
林:メンターから、それを最初に教えてもらったんです。(笑)
「は」:半分でいい
「ひ」:人並みに
「ふ」:普通に
「へ」:平凡に
「ほ」:ほどほどに
人の欲望って、「もっともっと、、、!」って際限ないじゃないですか。それがあたかも良いことであるような現代社会になっていて。だから、これを初めて聞いたとき、ハッっとさせられたんです。頭の片隅に入れておこうと思いましたね。
粟飯原:私は私、人は人と思っているので。当たり前のことが当たり前に出来て、自分の一日が気持ちよく終わったら、ありがとうございましたって、じいちゃんとお父さんには必ず言う。こうしてくれたけん、こうしよう。してあげたけん、こうしてもらう、とかはない。自分が普通のことをしよるだけです。
—いまの出会いをどんな風に、そしてこれからの未来について
粟飯原:七夕さんが合わせてくれたんな。この子がますます成長してずっと神山で居てくれたらいいと思うけど。
林:育子さんと出会って、ひとりで暮らしていたら得られないつながりが生まれています。神山が地元のおじいちゃん、おばあちゃんたちとのつながりとか。未来は…あんまり考えてないんですよね。その場その場で楽しいことをしてるんで。いまは、仕事も充実しているし、山も好きやし、大事がない限りは、神山にいたいですね。
ふたりが出会った「下分七夕まつり」は、今年は新型コロナウィルスの影響で中止となりましたが、七夕当日「お会いしてから一年が経ちましたね」と林くんが用意してくれたケーキでお祝いしたと、育子さんがこっそり編集部に教えてくれました。ふたりを引き合わせた織り姫と彦星がその光景を空からみていて、「神山にいてほしい」「神山にいたい」という願いを叶えてくれるような気がしています。
インタビュー:田中泰子、写真:生津勝隆、編集:高瀬美沙子
※1:下分七夕まつりは、2002年から続く下分地区の住民によって運営されている手づくりの七夕まつり。
※2: メンターとは、人生の助言者、指導者の意味をもつ言葉。
※3: フードハブ・プロジェクトの料理長・細井恵子さんのこと。