町出身大学生が感じた、新たな取り組みと関わりの変化
「神山に帰ってくるという、人生の選択肢が増えた」
令和2年 1月25日
中川麻畝(なかがわまほ)さんと敷田直実(しきたなおみ)さんは、保育所から中学校までの幼少期を、共に神山で過ごした幼馴染。現在は、それぞれ神戸と京都の大学に通っています。高校からは神山を離れ、町との接点が少なかったおふたり。ですが、昨年から少しずつ関わりが生まれ始め、神山に対する思いも大きく変わってきたといいます。そこに至った経緯も含め、町外に出た大学生が感じる〝神山のいま〟を聞かせていただきました。
神山に残ることは、まずないな
敷田さん(以下 敷田) 敷田直実といいます。3歳のときに神山町に引っ越してきて、中学校卒業までずっと住んでいました。高校は徳島市内の城南高校に行って、そのときに神山を出ました。今は、京都の同志社大学に通っています。
中川さん(以下 中川) 中川麻畝です。出身は下分で、小・中学校のときは菜の花で有名な上分の江田に住んでいました。直実と一緒で、中学校卒業のタイミングで神山を離れて、高校は徳島北高校に行きました。今は神戸市外国語大学で、英語の勉強をしています。
ー小さい頃は、神山のことをどういうふうに見ていましたか?
中川 小学校のときは、何も考えずにただ遊んでただけやったんですけど、中学校からは部活を始めるじゃないですか。それで、町外の中学校の子と話すようになって、神山が田舎っていうことを実感したというか。外から見たら〝めっちゃ山〟っていう印象なんやな、みたいな。私はそれがすごいショックでした。
敷田 そこまでマイナスに考えるほどでもなかったけど、試合に行くにも遠いし、町には何もないし、ポジティブな感情はなかったかなあ。市内に早く出たいし、東京とか都会に行きたいって思い始めたんはそれくらいから。
中川 そうかも。
敷田 神山自体は、すごく良い町だと思ってたんですよ。地域の人がすごい優しくて、やりたいことを何でもやらせてもらってたし。
私は小学校のときに少女バレーのチームに入ってて。人数が少なかったけど、ちゃんとチームとして練習もできたし、県外に試合とかも行かせてもらってたんです。それって神山の人たちの面倒見の良さがあってこそなんじゃないかな、って今になって思います。
中川 地区対抗でスポーツ大会とかもあったりして、すごい楽しかったよな。そういう地域の人同士の距離感も好きだった。
ーという気持ちがありながらも、中学校の頃から…。
敷田 ちょこちょこ気持ちが離れ始めたかな。「神山に残ることは、まずないな」って思ったし。絶対市内に出るって。中学校3年生のときは、「これが神山生活最後やな」って思いながら過ごしてた。先輩たちもそうだったし、高校で町を出て、そのまま就職してっていうのが一般的なコース。出ていくのが当たり前で、残る選択肢はなかったかなあ。
中川 うん。残るって1ミリも考えてなかった。
空白の6年間が埋まった
ー大学に入ってから、神山に帰省することは?
中川 1,2年生のときは、帰ってきても年に2回みたいな感じで。直実は?
敷田 私はめっちゃ帰ってきてたかなあ。GWも帰ってくるし、お盆もお正月も。神山に帰りたいっていうか、親に会えるから帰るみたいな感じですかね。
中川 私は帰ってくる頻度が少ないから、毎回帰ってくる度に何かができてるんですよ。食堂ができたと思ったら、カフェができてハンバーガー屋さんができて、みたいな。「神山どうした?」って思った(笑)。
敷田 逆に、徳島市内の友だちが神山に来て、インスタにアップしてたりとか。「え?なんで?」って。
ー神山との関わりに、変化がおきたきっかけは?
中川 昨年の4月に、国際交流プロジェクトで大学生スタッフを募集してるって友だちから聞いて。そんな存在も知らなかったんですけど、「まあやってみるか」くらいの軽いノリで参加してみたんです。そこで初めて、つなぐ公社の存在や『つなプロ』のことや新しく始まってることを知って。
国際交流の活動が2ヶ月に1回くらいあったので、それで結構帰ってくるようになり、「なんか神山面白いな」って思い始めたんです。オランダからアーティストとして神山に来たのに、今は神山でビール作ってる人とか、週にちょっとしか営業してないフランス料理屋さんとか。
そういうのって都会にもあまりない。
敷田 たしかに(笑)。
中川 年に2回くらいの帰省では分からなかった動きが、国際交流のスタッフとして関わることで、いっきに分かってきたんですよね。初めて神山を知るというか。中学校卒業してからの空白の6年間を埋めるっていう(笑)。その後に、神山町役場でインターンもさせてもらって、もっと神山に目が向いていったと思います。
神山に戻って働いたら、どうなるんだろう?
ー敷田さんは神山との関わりの変化は?
敷田 昨年の9月に、町内を巡るバスツアーがあったんです。元々は行く予定じゃなかったんですけど。
中川 そうやんな(笑)。
敷田 めっちゃ必死で勧誘してくれたのに、最初は断ってて。でも、友だち周りが全員参加するって言うんで、バスツアーの3日前くらいに「私も行くわ~」って。
中川 ビックリしたよ(笑)。でも、結局11人くらい集まって、同窓会みたいですごい楽しかった。
敷田 初めての場所をいっぱい見学させてもらえて、「え?こんな場所があるんや!」って吸収量はすごく多かったです。行くだけじゃなくて、そこで働いている人の話が聞けたのも良かったし。
中川 バスツアーが、町の動きを知るきっかけにはなったよね。
ー特に印象に残っていることは?
敷田 『SHIZQ』さんを見学させてもらったときですかね。そこで働いてるお姉さんが、京都から移り住んできてた方で。「え。わざわざ神山来たんですか?」みたいな。
中川 直実とは逆やもんな。
敷田 そうなん。「京都めっちゃ良い町やのに、何で残ってないんだろう?」って最初は思ったんですけど、こっちでやりたいことをしっかりとやれてるっていう話で。自分とも歳が近めで、田舎に来てもすごい輝いてて、こういう働き方もあるんやなって。とても魅力的でしたね。
その方以外にも、若い世代の人がたくさん働いていることにすごい驚いて。自分の親世代とかが多いイメージだったので、自分たちくらいの年齢でも働けるって知れたのは、すごくプラスになったというか。刺激的な一日で、京都に帰ってからもずっと考えてました。
ーどういったことを?
敷田 「神山に戻って働いたら、どうなるんだろう」って。雇用自体がないと思ってたんですよ。こっちに戻ったとしても、徳島市内で仕事して、神山には家族に会いに帰るだけになるんだろうなって思ってたし。神山で働くイメージって本当になくって。
でも、若い人が活躍してるし、神山はそれを受け入れてくれる町なんやなって思いました。
中川 若い人や外国の人が、神山に移り住んで働いていることに、すごい衝撃がありましたね。
ただの田舎じゃない、『ネオ田舎』
敷田 バスツアーに参加したことで、人生の選択肢が増えたというか。今はもっと神山のことを知りたいなって思っています。神山に帰ってきたい欲が、ふつふつと湧いてきたので、就活も始まるんですが、迷いながらになりそうです。新卒は京都とか東京で働いて、経験積んでから神山に帰ってくるか、いっそ若いうちに神山で働いて、それからもう一回出ていくっていうんもありかな、とか。
中川 私も、これからどういうふうに神山と関わっていくか探してるんですよね。どういう形が、自分にとっても町にとっても良いのかがまだ分からない。
敷田 どういう関わり方ができるか、ちょっとずつ探したいよな。
中川 「町に帰ってくる」っていう選択肢が増えたこと自体、ホンマにすごいことやなって。でも、「一度、町を出て良かった」とも思うんです。町外での生活を経験してるからこそ、広い目で神山を見ることができてるっていうか。
敷田 中学校のときには、コンプレックスみたいものも感じて、この町が嫌になった時期もあったけど、今はこの町に生まれたことをすごく誇りに思います。京都の友だちにも、もっと遊びに来てほしい。
中川 神山って、変わってないところも勿論あって、両方揃って「良い神山」だと思うんですよね。おじいちゃんおばあちゃんもやっぱり多いけど、その中で若い人も外国の人も増えてるし、新旧入り交じってる。ただの田舎じゃないっていうか、『ネオ田舎』みたいな(笑)。
敷田 (笑)。
中川 去年の夏に、下分の夏祭りを手伝ってたんです。人が減ってるっていうのはすごい思ったけど、それよりも若い人や外国人が多いことにびっくりして。そんな状況でも気にせずカラオケを歌うおじいちゃんおばあちゃんたち(笑)。それが成り立ってるっていうか、誰も変に思ってないっていうのが、今の神山っぽいなって。
敷田 これからも、どんどん新しいモノやコトが生まれていくと思うんですよね。私はそれがすごく良いことだと思うので、どんどん変化していって欲しい。私自身もこの町で、色々なことに挑戦したいなって思います。