若手後継者ふたりが向き合う、製材業の〝いま〟と〝継承〟
「家業も技術も、絶やさないことが大事だと思う」
平成31年 2月15日
今回は『神山製材』の森長祐介さんと『左右内製材』の三辻貴弘さんにお話を伺いました。まだ20代と若いふたりは、製材業の現状をどう見ているのでしょうか。またふたりは、一度県外に出た後に神山に帰ってきた若者でもあります。故郷に戻る前後で、心境の変化もあったといいますが、家業を〝継ぐ〟ことをどのように捉え、日々の仕事に取り組んでいるのでしょうか。お話を聞かせていただきました。
親父たちより、もっと成功したい
森長さん(以下 森長) 小・中学校は上分で、高校から徳島市内に。よくあるパターンですけど、そこから寮生活です。高校卒業後は愛媛大学の農学部に2年だけ行ってました(笑)。ほんで、大学を辞めてどうしようかって言よるうちに、家業を手伝い始めて今に至ります。
神山に戻ってきたのは、都会に行くより神山の方が楽しいかな、っていう単純な理由です。とにかく、これ以上県外に出ようっていう考えにはならなかった。
元々、家の仕事が好きではあったんですよね。大学も『森林資源学コース』っていう学科に行ったくらいなので。自分にできるかどうか分からんけど、とりあえずやらせてもらおう、っていうんが始まりでしたね。
三辻さん(以下 三辻) 自分は神領の生まれです。高校卒業後は広島の大学の建築学科に入り、卒業後はゼネコンに就職して、主に東京でマンションの現場監督をしてました。そこで2年くらい勤めた後、家業に入ったんです。
祖父が亡くなったことが、神山に戻る大きなきっかけになったとは思います。三辻家の男が父親だけになってしまって、家のこととか製材のこととか、やっぱり元気なうちに教えてもらわなあかんと思って。祖父が死ぬまで、神山に戻るなんて全然考えてなかったんですけどね(笑)。前の会社でそのままおろうと思ってたんで。
ー神山の製材業はどういう状況ですか?
三辻 神山の製材というか、全国的に製材業界自体が下火になってきよるんですよね。大量生産できる所は良いんですけど、うちみたいな小さい規模だと壊滅的というか。やっぱり大手には、単価で敵わない。
売り方も結構変わってきてると思います。昔は大工さんと直接やりとりして、材料を納品しよったんです。でも、今ってそんなに家も建てんじゃないですか。だから、大工さん自体もどんどん減っていってて。なので、市場出しをメインに今はしよるんですけど、やっぱり売上自体が少なくなってきてますよね。
森長 うちはうちで、三辻さん所と挽く材の種類が違うんですけど。
三辻 森長さんの所は、豪華なものを挽いとんですよ(笑)。
森長 節が出ていない柾目のものを、柱材としてメインでやってます。ただやっぱり、それにこだわる人っていうんもなかなかいなくて、需要・単価ともに減少中です。あと、うちが使えるような太い木が神山にはあまりないので、ほぼ県外から丸太を仕入れてるんですよね。だから実は神山でやる理由がそんなにない。
三辻 どっか違う場所でやる(笑)?
森長 いや、そんなパワーはないです(笑)。でも、元々この場所で製材しよったんも、うちじゃなかったんですよ。山持ちの人が集まって製材を始めて、火事が起きてする人がおらんようになったときに、うちのじいちゃんが入ったらしくて。まあ始まりから言うたら、100年くらいにはなるんですけどね。
三辻 うちも昔は、山から木を切ってきて、それを製材するような感じで仕事をまわしてたんです。でも今は、原木の単価が下がってしまって、山の仕事をするとどうしても採算が合わない。森林組合とかも、補助金を使って木を切ってる状態だと思います。
森長 うちが県外で買ってる木も、間伐の補助金で切られてるものが多いんですよ。
三辻 神山の製材に話を戻すと、後継者がおる所がほんまに少ないんです。将来、神山の杉を挽く所はうちくらいになるんちゃうかなあ。
木を出す人もいなくなり、製材業者も市場もなくなって、小売屋さんもおらんようになる。さっきも言うたように、残るんは大手とプレカット屋さんだけ、みたいな。そういう風になっていくんじゃないですかね。
森長 大手だけが残るっていうんは、どの業界も一緒かもしれないですけどね。
ー家業を継ぐということに対して、どういう思いが?
三辻 僕は一応「継ごう」という意志を持って、帰ってきてるんですよね。昔は、製材なんてアホみたいな仕事やな、って思ってたんですよ。汚いし、しんどいし。で、大きい会社に行って、仕事をしよった。でもずっと、心のどこかに「継ごう」という思いがあったんでしょうね。
それが祖父が亡くなったときに強くなった。
森長 僕は逆に、帰ってきたときは明確に「継ごう」っていう思いはなかったんですよ。なんとなく始まった感じなので。最初はしんどい仕事やなあ、って思ってましたけど、段々と面白くなってきたんですよね。
でも、まだ親を頼ってばっかりなので、「継いだ」とは到底言えない。まだまだこれから先のことは見通しが立ってないですけど、自分で活路を見出したときに、やっと「継いだ」って言えるんちゃうかなって思うんですよね。
三辻 「継ぐ途中」ですよね。だから、親父とはまだまだ一緒に仕事すると思います。ホンマは、ずっと働いとる人やけん、もう休んでもらって良いですけど(笑)。
森長 三辻さんのお父さんは、ホンマに働き者やけん(笑)。
三辻 親父より上の人らは良い思いをしたんでしょうし、逆にいうと自分やはしんどいことが多いと思うんです。でも僕は、負けたくないっていう気持ちがあるんですよ。親父たちより、もっと成功したいなって。
森長 これからの時代、自分たちで色々と動いていかないと駄目ですよね。
「出ていきたくない」と思える町に
ー今の神山をどう見ていますか?
三辻 東京から帰って来て驚いたことは、移住者の多さ。道を歩いとっても、知らん人が多いですよね。知ってる人がおったら挨拶するんですけど、知らん人には声をかけづらい。
だからこそ、僕はやっぱり同級生や町の出身者に、もっと帰ってきて欲しいんですよね。
働く所が少ないけん、それこそ僕らみたいに家業とかがないと戻ってきにくい、っていうのも分かるんですけど。やっぱり移住者の人と関係性を作るのって、0からじゃないですか。でも、出身者とだったら、元々の付き合いもあるんで関係性も作りやすいと思うんですよね。
森長 僕は逆に、全然そんな実感がなくて。移住者が増えてることは分かってるんですけど、そんなに僕自身の生活に変化もないので。時々、寄井を通ってびっくりしてました。「なんだこれ…」って(笑)。
関わりがないんですよね。交流の場もあまり多くないですし。移住者の知り合いができても、次に会うんは半年後とか1年後で、名前もなんとなく思い出せるっていう程度で。まあ、僕や地元側が歩み寄ってないんも、悪いかもしれないんですけど。
ー交流する場には行ってない?
森長 行ってないですね。僕に関しては住む環境が違いすぎて。役場とかが色々そういう場を作ろうとしてくれよるんは分かるんですけど、いまいち僕らには届いてない。届いとったとしても「そんなイベントあるんか…」で終わってしまってる。
移住者が増えることが駄目だ、とかは全然思ってないんですよ。実際、上分にも移住してくれとる人がおって、交流がないわけではないんで。今おる人が「出ていきたくない」って思えるような町にせないかんですよね。せっかく神山に来てくれたんですから。
100年続く製材屋に
ー今後の展望を教えてください。
三辻 製材もしながら、他のことに色々と手を広げていけたら。今、二級建築士の資格を持っているので、建売とかもできたらと思い、少しずつ計画はしてます。
森長 とりあえず、生きていくこと食べていくこと(笑)。まずはそこからですね。これから自分が作る材の需要が、どう変化していくのか。もしかしたら、海外とかで使ってくれることもあるかもしれんので、そういう所も視野に入れなあかんのちゃうかなって。
三辻 やっぱり絶やさないことが大事だと思うんですよ。
ー絶やさない。
三辻 はい。家業も技術も絶やさないように。自分も四代目なんですけど、せっかく代々頑張ってきとるんやけん、自分の代で絶やしたらあかんと思ってます。自分が上手いこと続けたら、100年続く製材屋になるんですよ。
森長 やっぱり木を使う文化は残って欲しい。木の見える家を作るとか、家の中にも木の装飾を入れるとか。それを作れる人がおらんようになるんも、寂しい状況ですよね。そう考えると、製材業界自体に若い人が本当に少ないので、自分が続けていくことにも意味があるんちゃうかな、って思っています。
三辻 だから、どうにか受け継いでいかないと。欲を言えば、僕らのさらに次の代にも繋いでいけたらなって。そんなん言うて、絶やしてしまうかもしれないですけど(笑)。
森長 めちゃめちゃ大きくなってるかもしれないですよ(笑)。
三辻 それはないと思う(笑)。